団塊の世代の私が子供だった昭和30年代は、ー般庶民と自動車の間のへだたりはとても大きく、生活というものにくるまが入ってくることはそれほど多くはなかった。だからくるまとの接点については今でも比較的覚えている。小学校に入ったあたりのことで記憶にあるのはオート三輪である。街の商店(八百屋など)で使う車のほとんどはこれじゃなかったかと思われるが、今の自動車とはずいぶん違うものだった。感じとしてはオートバイに荷台を取り付けたようなもの、新車でもヨタヨタと走っていた。ハンドルも初期のタイプではオートバイのような1本のバーで、それが前のタイヤを操向する仕組みだったが、後期になると円形のハンドルも登場した。ドライバーはオートバイのようにまたがって乗り、助手席は折り畳みのシートを前に倒すような仕掛けで、私はそこに乗せてもらいたかったけれど、そんなエキサイティングな経験はそう多くはなかった。くるまについての原体験というとこれじゃないかと思う。この「オート三輪」も、我々の世代が何とか覚えているくらい、世の中からは忘れられつつあるようだが、どんなものかはウィキペディアででも読まれるといいだろう。今思い出してみると、車というよりは運搬車などの農機具にも近いと思える。
 小学校の3年頃からは、毎年の夏休みに父親の田舎である兵庫県に遊びに行っていたのだが、向うの親威や知合いの家には色々なくるまがあり、それが子供の頃の私にはとても印象的で、そんなことがくるまへの傾倒につながったのではないかと思われる。ー番身近かだった叔父の家には、日野ルノー、その次にはいすゞのヒルマンがあった。どちらもノックダウン車(外国のくるまを日本のメー力一が契約して生産したもの)だった。叔父は医者だったから応診などの仕事にも使ったはずだが、私は姫路の奥の田舎へのドライブが最も楽しみだった。田舎の叔母の家は自転車屋(のちに自動車屋になる)だったが、ここにも仕事用のくるまがあった。あとでいろいろ変わったと思うが、一番最初は確かダットサンのトラックだったと思う。ダットラなどと呼ばれ数多くが生産された時期の遙か前のことである、方向指示器も(アポロっていったかな)腕木のようなものが飛び出す仕掛けのものだった。あと、神戸の知り合いの家にあったくるまは、フォード・タウナスだった。今まで英国フォードかと思っていたけれど、あらためて調べてみるとドイツフォードだったようだ。この家もお医者さんで、普段はドライバーが運転していたらしいが、私が行く夏休みは東京で医学校に通っていた息子さんも帰っていて、その兄貴分の運転で乗せてもらっていた。車庫に入れるときなど、バックに入れようとした際によくギアのリンクが噛み、ボンネットを開けて直していたが、外車でもそんなことがあるんだと子供心に感じていたのを思い出す。
 もう一つ覚えているのは終戦直後頃と思われるシボレー。私の父親は役人だったが、小学校高学年のころは公用車のシボレーに乗せられていた。我々家族も乗ることがあったが、進駐軍のお下がりと思われるこれは、GMでも一番普及型のものだったはずだが、当時の国産車とは別物のすごいものだった。戦勝国なんていう認識はなかったと思うけれど、アメリカとはすごい国だったと思ったのであった。
 
 こうやって振り返ってみると、当時は一部の人たちのものだったんだなあということをあらためて感じる。私の場合、年齢の面でもまだ10年くらいは早かったけれど、ちようどそのころから10年の間に、日本は高度成長を遂げ、くるまというものも何とかー般的になったのである。私が実際に車に乗り始める前のことをまえがき的にまとめてみた。


wikipedia 「オート三輪」